2011年6月4日土曜日

住宅は機械。すまいは いきもの。

『住宅は住むための機械である。』
その作品群が世界遺産の登録をめぐり、昨今少々話題となった
近代建築の巨匠 フランス人建築家ル・コルビュジェの言葉。
氏が 実際はどんな趣旨で述べたかのかは、わからないですが
機械 という冷たい言い方は 私なりに勝手に解釈しています。

住宅とは、しかるべく用途(目的)に応じた機能にすぎない。
( 人が使って 馴染んで はじめて いのち。)

京都の町家は、うなぎのねどこ にたとえられる細長い区画。
そんな困難な状況でも、プライバシーを確保し光を取り入れ、
自然と共生する知恵として 中庭が自然発生したのでしょう。
安藤忠雄氏の『住吉の長屋』という住宅作品は、その思想を
究極にデ・フォルメした まさに機械 とも いえましょう。

ここのところ
住宅設計の相談にこられる方が、計画へ向けたキーワードで
『パティオ』を よく あげられます。

『パティオ』‥ 私もスペインの住宅で体験したことがあるの
ですが、日中の強い直射日光をさえぎるための『生活の知恵』
として自然発生したものと考えられるとこは、京都町家の中庭
と似ています。 ‥ただ、ちょっと ここではちがうようです。

機能を追求した結果 生まれた造形をデザインと呼ぶとすれば、
計画の上に施される デコレーション のようなニュアンスが
『パティオ』という響きの中にあるのだな、と気がつきました。

勿論 こういった思想を 一概に否定するつもりもありません。

かつて だいの日本通で知られた建築家ブルーノ・タウト が
機能の極みともいえる構造のストイックな造形美・桂離宮 を
賞賛していたのに対し、デコデコ装飾の日光東照宮の日暮の門
を批判していたことが知られています。

直接なにがしかの機能のない 装飾 だって 文化 です。 
ただ、機能を追求した機械としての住宅建築に取りこむのには
そのぶん 他の何かを譲歩する覚悟もいる、ということですね。

またまた、ちょっと おかたい話題。